久米宏の現在は?2026年1月1日に81歳で死去、肺がんと生涯の功績を徹底解説
久米宏さんの現在について、2026年11月時点で確認できる事実は、2026年1月1日に肺がんのため81歳で亡くなったということです。所属事務所のオフィス・トゥー・ワンが1月13日に訃報を発表し、TBSやテレビ朝日などの報道機関も死去を伝えました。かつて「ニュースステーション」のメインキャスターとして日本の報道番組を変え、「ザ・ベストテン」「ぴったしカン・カン」でも人気を集めた名司会者でした。
訃報の公表が亡くなった日から12日後だったこともあり、死去の経緯や死因、妻の久米麗子さんのコメント、晩年の暮らしに関心が集まっています。2020年にラジオのレギュラー番組を終えた後、久米さんはどのような時間を過ごしていたのでしょうか。TBS・テレビ朝日の報道、所属事務所の発表、2024年のインタビューなどをもとに、経歴と功績を振り返ります。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 死去の事実:2026年1月1日、肺がんのため81歳で逝去。発表は1月13日。
- 家族:妻は久米麗子さん。訃報の際には、夫との最期の思い出を含む追悼コメントを発表した。
- 代表番組:「ぴったしカン・カン」「ザ・ベストテン」「ニュースステーション」など。
- 晩年の暮らし:2024年のインタビューでは、月に8〜10本の映画を鑑賞していたことを明かしている。
- 最後のレギュラー番組:「久米宏 ラジオなんですけど」は2020年6月に最終回を迎えた。
【2026年最新】久米宏は現在どうしている?1月1日の死去と肺がんによる訃報
久米宏さんは、2026年1月1日、肺がんのため81歳で亡くなりました。訃報が公になったのは同月13日です。所属事務所の株式会社オフィス・トゥー・ワンが公式サイトで発表し、TBS NEWS DIGやテレビ朝日も報道しました。
事務所の発表によると、久米さんは令和8年1月1日に肺がんのため永眠。通夜と葬儀は遺族の意向により、近親者のみで静かに執り行われました。
「弊社所属 久米宏は、令和8年1月1日、肺がんのため満81歳にて永眠いたしました。」
これはオフィス・トゥー・ワンが公表した訃報の一節です。公表された死因は肺がんであり、病状の進行状況や具体的な闘病期間、治療内容などについては、同発表では明らかにされていません。
亡くなった日と訃報発表日が違う理由
今回の訃報で混同されやすいのが、亡くなった日と発表された日の違いです。
久米さんが亡くなったのは1月1日ですが、所属事務所が公表したのは1月13日です。したがって、1月13日に亡くなったわけではありません。
葬儀についても、遺族の意向によって近親者のみで執り行われたと説明されています。発表までの期間を含め、家族の意向を尊重した静かな見送りだったことがうかがえます。
久米宏の基本プロフィール
久米宏さんは1944年7月14日生まれ、埼玉県出身。早稲田大学政治経済学部を卒業後、1967年にTBSへ入社しました。
アナウンサーとしてキャリアをスタートさせ、テレビのバラエティーや音楽番組、ラジオ、報道番組と幅広いジャンルで活躍しました。1979年にTBSを退社してフリーとなり、その後「ニュースステーション」のメインキャスターとして長年にわたり日本のテレビ報道を牽引しました。

【経歴・年表】TBSアナウンサーからニュースステーションの顔になるまで
久米宏さんのキャリアを理解するうえで重要なのは、TBSの局アナ時代、フリー転身後の人気司会者時代、そして報道キャスター時代という3つの転換点です。
単に人気番組を渡り歩いたのではありません。娯楽番組で培った進行力や視聴者との距離感を、最終的には報道の世界に持ち込んだことが大きな特徴でした。
久米宏の経歴と代表番組の年表
| 時期 | 出来事・担当番組 | 主な実績・意味 |
|---|---|---|
| 1944年 | 埼玉県に生まれる | 7月14日生まれ |
| 1967年 | TBS入社 | アナウンサーとして活動開始 |
| 1975年〜1984年 | ぴったしカン・カン | 司会者として全国的な人気を獲得 |
| 1978年〜1985年 | ザ・ベストテン | 黒柳徹子さんと司会を担当 |
| 1979年 | TBS退社・フリー転身 | 活動の幅を広げる |
| 1985年〜2004年 | ニュースステーション | テレビ朝日のメインキャスターを担当 |
| 2006年〜2020年 | 久米宏 ラジオなんですけど | TBSラジオの人気レギュラー番組 |
| 2019年〜2021年 | 久米*ネット | インターネット動画番組を展開 |
| 2024年 | 映画鑑賞中心の生活を語る | 月8〜10本の映画を鑑賞 |
| 2026年1月1日 | 肺がんのため死去 | 81歳 |
この年表から分かるのは、久米さんがテレビの第一線から完全に離れた後も、ラジオやインターネットを通じて発信を続けていたことです。
また、TBSのアナウンサーという出発点から、フリーの司会者、報道キャスター、ラジオパーソナリティーへと活動領域を変えていった点も特徴的です。
1979年のフリー転身がキャリアの大きな転換点
久米さんは1979年にTBSを退社し、フリーアナウンサーとなりました。
当時、局アナから独立することは、所属局の番組だけでなく、局を越えて仕事をする可能性を広げる選択でもありました。実際、久米さんはフリー転身後、日本テレビの「おしゃれ」や「久米宏のTVスクランブル」などにも出演しています。
こうした経験が、1985年に始まる「ニュースステーション」への出演につながっていきます。
(参考:TBS NEWS DIG、テレビ朝日ニュース)
【代表番組を振り返る】ザ・ベストテンとぴったしカン・カンで見せた司会者としての才能
久米宏さんの名前を聞いて、まず音楽番組「ザ・ベストテン」やクイズ番組「ぴったしカン・カン」を思い出す人も少なくありません。
報道キャスターとしての印象が強い一方で、もともとは娯楽番組で視聴者を引きつける能力に優れた司会者でした。
ぴったしカン・カンで全国的な人気を獲得
1975年から1984年まで司会を務めた「ぴったしカン・カン」は、久米さんの知名度を全国区に押し上げた番組です。
出演者の発言を受け止めながら、テンポよく番組を進める技術が持ち味でした。単に問題を読み上げるだけではなく、出演者とのやり取りや場の雰囲気を作り出すことにも長けていました。
この時期に確立された軽妙な語り口は、その後のテレビ司会者としての活動にも生かされていきます。
ザ・ベストテンでは黒柳徹子との名コンビが誕生
1978年に始まった「ザ・ベストテン」では、黒柳徹子さんとともに司会を担当しました。
当時の音楽番組としては画期的だったのが、ランキングを軸にした生放送の構成です。歌手の出演状況やランキングの変動など、予定どおりに進まない場面もある中で、久米さんは瞬時の判断と巧みな進行で番組を支えました。
TBSの報道によれば、同番組の最高視聴率は41.9%。当時の音楽番組として非常に大きな支持を集めていました。
黒柳徹子さんは訃報を受けて、久米さんとの関係を「ザ・ベストテン」以来の親友だったと振り返っています。生放送での掛け合いだけでなく、長年にわたる信頼関係があったことも伝わってきます。
この2人のコンビが視聴者に愛された理由は、役割が明確でありながら、互いの反応を予測しきれない自然なやり取りにありました。

【ニュースステーション】18年以上にわたり日本の報道番組を変えた功績
久米宏さんのキャリアを語るうえで、最大の代表作といえるのがテレビ朝日の「ニュースステーション」です。
1985年10月に始まった同番組で、久米さんはメインキャスターに就任。2004年3月まで、18年を超える長期間にわたって番組の顔を務めました。
従来のニュース番組とは異なる視聴者目線
「ニュースステーション」の特徴は、ニュースを単に読み上げるだけではなく、キャスター自身が疑問を投げかけ、視聴者と同じ目線でニュースの背景を考えるような構成にありました。
久米さんは、アナウンサーとしての正確な進行力に加え、バラエティー番組で磨いた間の取り方や話題の展開力を報道に生かしました。
ニュースの内容を分かりやすく伝えるだけでなく、政治や社会の出来事について視聴者が自分で考えるきっかけを作る。そのスタイルは、当時のテレビ報道に新しい選択肢をもたらしました。
テレビ朝日も公式コメントで功績を評価
久米さんの訃報を受け、テレビ朝日は公式コメントを発表しました。
「日本のテレビ報道における新しいスタイルのニュース番組を切り開いていただきました。」
同局は、1985年10月から2004年3月までの18年を超える出演について、テレビ司会者としての才能とニュースキャスターとしての見識を評価し、報道への大きな貢献に感謝を示しました。
この評価は、久米さんの功績が単なる番組人気にとどまらなかったことを示しています。
最終回のビールにも象徴される久米宏らしさ
「ニュースステーション」の最終回も、久米さんらしさを象徴する場面として知られています。
番組の最後にはビールを飲み干し、長年担当した番組に区切りをつけました。後に妻の麗子さんも、久米さんの最期について語る際、この最終回の場面に触れています。
報道番組のキャスターでありながら、最後まで自分自身の個性を表現することを大切にした。その姿勢は、長年番組を見てきた視聴者の記憶に残っています。
【晩年の暮らし】ラジオ最終回後は映画鑑賞を楽しむ日々だった
テレビ朝日の「ニュースステーション」を2004年に降板した後、久米さんはラジオやインターネット番組を活動の中心にしました。
特に、2006年10月に始まったTBSラジオの「久米宏 ラジオなんですけど」は、晩年の活動を語るうえで欠かせない番組です。
久米宏 ラジオなんですけどは2020年6月に終了
「久米宏 ラジオなんですけど」は、約14年間にわたって放送されたレギュラー番組です。
2020年6月に最終回を迎え、久米さんにとって最後のレギュラー番組となりました。
最終回では、仕事を始めてから50年という節目を振り返り、これまでの活動に一区切りをつける趣旨の言葉を残しています。
番組終了については、久米さん自身が以前から言い間違いが増えたことなど、肉体的な負担を理由として説明していました。
その後、2019年から展開していたインターネット動画番組「久米*ネット」も2021年5月に配信を休止。放送の最前線から徐々に距離を置いていきました。
2024年のインタビューで明かした映画中心の生活
晩年の久米さんの暮らしを知るうえで貴重なのが、2024年に公開された映画監督・西川美和さんとの対談です。
この対談は「文藝春秋」2024年7月号に掲載されたもので、久米さんは仕事をセーブした後の日常について語っています。
そこで明らかになったのが、映画鑑賞を中心とする生活でした。
「いまも週に2回は試写会に通っています。月に8本から10本は見ていますね。」
久米さん自身が語った映画鑑賞のペースは、週2回ほどの試写会、月8〜10本。仕事を離れても、映画に触れる時間を積極的に持っていたことが分かります。
また、小学生の頃から映画に親しんでいたとも話しており、映画鑑賞は晩年に突然始めた趣味ではなく、長年続いていた関心の一つでした。
この対談では広島カープへの愛着についても話題になっています。映画と野球という、久米さんの個人的な関心が垣間見える内容でした。
ただし、この2024年のインタビューは当時の近況を伝えるものであり、2026年の死去直前まで同じ生活を送っていたと断定できるものではありません。

【妻・久米麗子のコメント】最後まで久米宏らしさを貫いた最期
久米宏さんの訃報とともに注目されたのが、妻の久米麗子さんが発表した追悼コメントです。
麗子さんは夫の人柄や日常の様子、仕事への向き合い方を振り返り、久米さんが最後まで自分らしく生きたことを伝えました。
妻・久米麗子さんが語ったサイダーの思い出
麗子さんのコメントで特に印象的だったのは、久米さんが大好きだったサイダーに触れた部分です。
「久米は、最後まで“らしさ”を通したと思います。大好きなサイダーを一気に飲んだあと、旅立ちました。」
さらに、麗子さんはその場面を「ニュースステーション」の最終回で久米さんがビールを飲み干した姿と重ね合わせました。
番組の最後にビールを飲み、人生の最後には好物のサイダーを飲んで旅立ったというエピソードは、夫の個性を知る家族ならではの言葉として伝えられました。
若いスタッフとの交流を大切にした人柄
麗子さんは、久米さんが若いスタッフを好み、冗談を交わしながら過ごす時間を大切にしていたことも明かしています。
また、常に新しいことに挑戦し、世の中の疑問を純粋な気持ちで見つめる人だったと振り返りました。
久米さんにとって、自分の考えを多くの人に向けて発信できることが、仕事を続ける大きな原動力だったという趣旨も伝えています。
妻のコメントから浮かび上がるのは、テレビで見せていた鋭い語り口だけではない、身近な人との交流を楽しむ一面です。
妻以外の家族情報について
訃報では、妻の久米麗子さんのコメントが公表されています。一方、家族の詳しい構成や私生活の詳細について、所属事務所の訃報発表では説明されていません。
公に伝えられた家族に関する情報として重要なのは、麗子さんが夫を偲ぶコメントを発表し、葬儀が近親者のみで執り行われたという点です。
【プロの結論】久米宏が日本のテレビ・ラジオに残した本当の功績
久米宏さんの功績を評価する際、単純に出演番組の数や視聴率だけを見るのでは、その本質を捉えきれません。
注目すべきなのは、娯楽番組で磨いた司会技術を報道に持ち込み、ニュースの伝え方そのものに変化を与えたことです。
娯楽と報道をつなぐ独自のコミュニケーション能力
「ぴったしカン・カン」や「ザ・ベストテン」では、出演者との掛け合いや生放送の臨場感を生かして視聴者を引きつけました。
一方、「ニュースステーション」では、同じ進行力をニュースの理解や社会問題への関心につなげました。
つまり、久米さんの強みは、娯楽と報道を別々のものとして扱わず、どちらにも必要な「人に伝える技術」を磨き続けたことにあります。
久米宏の功績を評価する3つの視点
1つ目は、ニュースを身近なものにしたこと。専門的な政治や経済の話題を、視聴者が自分の生活と結び付けて考えられるような伝え方を追求しました。
2つ目は、生放送の可能性を広げたこと。予定調和に頼らない進行や、出演者との自然な掛け合いを番組の魅力に変えました。
3つ目は、メディアの変化に合わせて活動を続けたこと。テレビからラジオ、さらにインターネット動画へと活動の場を変え、長く自分の言葉で発信する姿勢を保ちました。
久米さんのキャリアを知るうえでは、懐かしい番組の思い出だけでなく、当時の放送環境やメディアの変化と照らし合わせることも大切です。
また、人物の近況を調べる際には、訃報の発表日と実際の死去日、公式発表と第三者の推測、過去のインタビューと現在の状況を区別することが重要です。今回の久米さんのケースは、その違いを理解するうえでも象徴的な事例となりました。
久米宏の現在に関するよくある質問(FAQ)
Q1:久米宏さんは現在も生きていますか?
A1:いいえ。久米宏さんは2026年1月1日に肺がんのため81歳で亡くなりました。所属事務所オフィス・トゥー・ワンが1月13日に公式発表しています。
Q2:久米宏さんの死因は何ですか?
A2:死因は肺がんです。所属事務所の公式発表およびTBS、テレビ朝日の報道で明らかになっています。詳しい病状や治療経過は公表されていません。
Q3:久米宏さんの妻は誰ですか?
A3:妻は久米麗子さんです。2026年1月の訃報発表時には、夫が最後まで自分らしさを貫いたことや、大好きなサイダーを飲んで旅立ったことなどをコメントで伝えました。
Q4:久米宏さんの最後のレギュラー番組は何ですか?
A4:TBSラジオの「久米宏 ラジオなんですけど」です。2006年10月に始まり、2020年6月に最終回を迎えました。
Q5:久米宏さんは晩年、どのように過ごしていましたか?
A5:2024年の西川美和さんとの対談では、映画鑑賞を楽しんでおり、週2回ほど試写会に通い、月に8〜10本の映画を見ていると話していました。
Q6:久米宏さんの代表番組は何ですか?
A6:主な代表番組は「ぴったしカン・カン」「ザ・ベストテン」「ニュースステーション」「久米宏 ラジオなんですけど」です。特に「ニュースステーション」では1985年から2004年までメインキャスターを務めました。
Q7:久米宏さんが所属していた事務所はどこですか?
A7:株式会社オフィス・トゥー・ワンです。2026年1月13日に同社が久米さんの死去を公式発表しました。
まとめ:久米宏の現在と、テレビ史に刻まれた功績
久米宏さんは2026年1月1日、肺がんのため81歳で亡くなりました。訃報は1月13日に所属事務所のオフィス・トゥー・ワンから発表され、TBSやテレビ朝日もその功績を振り返りました。
1967年にTBSへ入社し、「ぴったしカン・カン」「ザ・ベストテン」で人気司会者となった後、フリーに転身。1985年から2004年まで「ニュースステーション」のメインキャスターを務め、日本のテレビ報道に新しいスタイルをもたらしました。
2020年に「久米宏 ラジオなんですけど」が終了した後は、仕事をセーブしながら映画鑑賞などを楽しんでいたことも、2024年のインタビューから分かっています。
妻の久米麗子さんが語ったサイダーのエピソードや、若いスタッフとの交流を大切にした人柄は、テレビ画面だけでは伝わらない久米さんの一面を教えてくれます。
久米宏さんが残したものは、数々の人気番組だけではありません。ニュースをどう伝え、視聴者とどう向き合うのか。その問いをテレビの世界に投げかけ続けたことこそ、長く記憶される功績です。
娯楽番組の名司会者であり、報道番組の革新者でもあった久米宏さん。その独自の語り口と自由な表現者としての姿勢は、これからも日本の放送文化を振り返る際に欠かせない存在であり続けます。 (出典: 久米 宏 今(Yahoo!ニュース))