白川裕二郎は元力士?綱ノ富士の由来と引退理由、2027年卒業まで徹底解説
歌謡コーラスグループ「純烈」のリードボーカルとして知られる白川裕二郎。端正なルックスと力強い歌声で多くのファンを魅了してきた彼には、芸能界に入る前、大相撲の力士として土俵に立っていたという異色の経歴がある。1995年に朝日山部屋へ入門し、四股名は「綱ノ富士」。最高位は序二段99枚目で、けがを理由に約1年で現役を退いた。
2026年11月現在、白川裕二郎は純烈のメンバーとして活動を続けている。一方、2026年6月8日には、2027年3月31日をもってグループを卒業することを正式発表した。力士時代の体重105キロというエピソードや、憧れだった千代の富士との関係、俳優デビュー作『忍風戦隊ハリケンジャー』、そして卒業発表の背景まで、これまでの歩みを振り返る。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 元力士の経歴:1995年に朝日山部屋へ入門し、四股名「綱ノ富士」で土俵に立った。
- 引退理由:けがによって約1年で相撲界を離れた。最高位は序二段99枚目、現役時代の体重は105キロに達した。
- 2026年の最新情報:2027年3月31日に純烈を卒業予定。所属事務所には引き続き在籍し、卒業後は充電期間を設ける意向を示している。
【元力士だった!】白川裕二郎の力士時代と朝日山部屋への入門
1995年に大相撲の世界へ。子どもの頃からの夢を実現
白川裕二郎は1976年12月11日生まれ、神奈川県出身。現在は歌手・俳優として活動しているが、芸能界に入る以前は本格的に大相撲の世界を目指していた。
相撲好きだった両親の影響もあり、幼い頃から大相撲中継に親しんでいた白川。とりわけ憧れていたのが、昭和の大横綱・千代の富士だった。
高校卒業後、柔道の道場に通っていたところ、朝日山部屋の関係者の目に留まったことが入門のきっかけとなる。日刊SPA!の連載インタビューによると、道場で稽古する白川の姿を見た朝日山部屋のおかみさんが関心を持ち、本人の相撲への意欲を知った親方が自宅を訪れてスカウトしたという。
こうして白川は、憧れだった相撲界への道を歩み始める。1995年に朝日山部屋へ入門し、同年に初土俵を踏んだ。
所属していた朝日山部屋とは?
白川が所属していたのは、当時の朝日山部屋だ。現在も同名の相撲部屋は存在するが、当時の部屋とは系譜が異なるため、現在の朝日山部屋とそのまま同一視しないよう注意したい。
力士の生活は、土俵上の取組だけではない。稽古や体づくりに加え、共同生活の中で先輩力士の世話や部屋の仕事なども経験する。白川も、俳優や歌手とは異なる相撲部屋の日常を過ごした。
現役期間は短かったものの、単に相撲好きだったというだけではなく、実際にプロの力士として入門し、番付に名前を載せていたことが彼の経歴の大きな特徴だ。
【綱ノ富士の由来】千代の富士への憧れと体重105キロの力士生活
四股名は「綱ノ富士」。地元と憧れの横綱から名付けた
白川裕二郎が力士時代に名乗っていた四股名は、「綱ノ富士(つなのふじ)」である。
この名前には、本人の故郷への思いと、少年時代から憧れていた横綱への敬意が込められている。
2026年4月に放送されたBSフジの番組『飯島直子の今夜一杯いっちゃう?』では、白川本人が四股名の由来を説明した。
「綱」は、出身地である神奈川県横浜市港北区の綱島から取ったもの。そして「富士」は、大好きだった横綱・千代の富士にちなんだものだ。
つまり、綱島の「綱」と千代の富士の「富士」を組み合わせた名前が「綱ノ富士」だったのである。
横綱を目指す若者らしい、夢と地元への愛着が伝わる四股名だ。2026年4月の番組では、白川自身が横綱のような立派な名前にしたかったという趣旨を語っている。
体重は105キロまで増加。毎日ご飯を一升食べた時代
現在の白川裕二郎からは想像しにくいが、力士時代の体重は105キロに達していた。
2022年6月にフジテレビ系『ポップUP!』へ出演した際、白川は当時の写真を披露し、入門当初は75〜76キロ程度だった体重が、毎日ご飯を一升食べる生活によって105キロまで増えたと振り返った。
単に食事量を増やしたというだけではない。力士として土俵に立つためには、体格づくりと稽古を並行して続けなければならない。白川にとっても、増量は大きな挑戦だった。
日刊SPA!のインタビューでは、身長182センチ、体重105キロの筋肉質な体格だったことも紹介されている。憧れの千代の富士を意識した相撲スタイルで、まわしを取ってから投げを狙う相撲を得意としていたという。
また、2022年の番組では、力士時代の写真が実際に紹介された。若い頃の力士姿を探している人にとっては、こうしたテレビ番組で披露された写真が貴重な記録となっている。
力士時代の実態は?短期間でも本格的な相撲経験
白川の力士生活は約1年と短い。しかし、前相撲を含む7場所で16勝12敗14休という戦績を残している。
本人の過去のインタビューやテレビ出演からは、相撲に対する強い憧れだけでなく、体づくりの苦労やけがによる挫折も伝わってくる。
特に興味深いのは、引退後も相撲の稽古で身につけた柔軟性が残っていたことだ。スポニチの報道によれば、白川は歌手になった後も股関節の柔軟性を意識しており、股割りを披露したこともある。
力士としての現役期間は短くても、身体の使い方や柔軟性など、相撲経験はその後の俳優・歌手活動にもつながっている。
【相撲引退の理由】腰痛やけがで約1年の力士生活に幕
最高位は序二段99枚目。関取になる前に引退
白川裕二郎の最高位は序二段99枚目である。
大相撲の番付は、上位から幕内、十両、幕下、三段目、序二段、序ノ口などに分かれている。序二段は下位の番付に位置するが、正式に大相撲の力士として競技生活を送った記録である。
白川は1995年に初土俵を踏み、入門から約1年で相撲界を去った。関取への昇進や幕内での活躍を果たす前に、力士としての夢に区切りをつけることになった。
引退の背景にあった腰の痛みとけが
白川の相撲引退理由として知られているのが、けがによる身体的な問題だ。
2018年のデイリースポーツの報道では、持病だった腰痛が悪化したこともあり、約1年で引退したと伝えられている。また、2026年4月のBSフジの番組に関するスポニチの報道でも、けがのため入門1年で引退したことが紹介された。
相撲は、体重の大きな力士同士が激しくぶつかり合う競技だ。稽古でも腰や股関節などに大きな負荷がかかる。白川の場合も、力士として競技を続けることが難しくなるほどの身体的な問題に直面した。
引退の具体的な診断名や治療経過について、詳細な医療情報が公表されているわけではない。確認できるのは、けがが引退の直接的な背景であり、腰痛の悪化も報道されてきたという点だ。
相撲を辞めた後、母親の勧めで俳優の道へ
相撲を辞めた白川は、すぐに芸能界で成功したわけではなかった。
日刊SPA!の2019年のインタビューによれば、引退後はアルバイトを転々とする時期を経験した。相撲を辞めた際には、母親が涙を流したことも本人が振り返っている。
その後、母親から劇団俳優座への道を勧められ、研修生として演技を学ぶことになった。相撲という一つの夢を失った後、新たな目標を見つけていったのである。
この転身は、白川の人生における大きな分岐点だった。力士としての身体能力を持ちながら、俳優として表現力を磨くことになり、やがて特撮作品への出演につながっていく。
【経歴と関係者一覧】力士からハリケンジャー、純烈へ
白川裕二郎の経歴を理解するには、相撲部屋、憧れの横綱、俳優としての代表作、そして純烈のメンバーとの関係を整理すると分かりやすい。
| 人物・組織・作品 | 白川裕二郎との関係 | 時期・主な意味 |
|---|---|---|
| 朝日山部屋 | 大相撲時代の所属先 | 1995年に入門。初土俵を経験 |
| 千代の富士 | 少年時代からの憧れの横綱 | 四股名「綱ノ富士」の「富士」の由来 |
| 綱島 | 神奈川県横浜市の出身地 | 四股名「綱ノ富士」の「綱」の由来 |
| 『忍風戦隊ハリケンジャー』 | 霞一甲/カブトライジャー役 | 2002年に俳優として注目を集める |
| 酒井一圭 | 純烈のリーダー・結成メンバー | 俳優時代の交流を経て純烈へ誘う |
| 純烈 | 初期からのメンバー・リードボーカル | 2007年結成、2010年メジャーデビュー |
| G-STAR.PRO | 所属事務所 | 2027年の純烈卒業後も所属を継続 |
2002年『忍風戦隊ハリケンジャー』で俳優デビュー
俳優としての転機になったのが、2002年に放送されたスーパー戦隊シリーズ『忍風戦隊ハリケンジャー』への出演だ。
白川が演じたのは、霞一甲(かすみ・いっこう)。カブトライジャーに変身する人物で、作品の中でも印象的な存在だった。
力士から俳優への転身は、決して一般的なキャリアではない。相撲で培った身体能力や体格は、アクションを伴う特撮作品でも生かせる強みになった。
その後もNHK大河ドラマ『功名が辻』や『天地人』などに出演。舞台にも活動の幅を広げ、俳優として経験を積んでいった。
2007年に純烈結成。歌手として新たなキャリアを築く
俳優として活動する中で出会ったのが、後に純烈のリーダーとなる酒井一圭だった。
日刊SPA!のインタビューによると、酒井は白川の歌声に魅力を感じ、歌手として活動することを提案した。こうして2007年、白川は純烈の結成メンバーとして新しいキャリアをスタートさせる。
2010年にはシングル「涙の銀座線」でメジャーデビュー。その後、健康センターやスーパー銭湯などで地道に活動し、ファンとの距離が近い独自のスタイルを築いていった。
2018年にはNHK紅白歌合戦に初出場。俳優から歌手へ、さらに全国的な人気グループのリードボーカルへと活躍の場を広げた。
力士時代にかなわなかった大きな夢とは異なる形で、白川は多くの観客の前に立つ存在になったのである。
【2026年最新】白川裕二郎の現在と純烈卒業は2027年3月31日
2026年11月現在は純烈のリードボーカルとして活動中
2026年11月5日現在、白川裕二郎は純烈のメンバーとして活動している。
純烈は2007年の結成以来、メンバーの卒業や加入を経験しながら活動を継続してきた。白川は結成当初からグループを支えてきたオリジナルメンバーの一人であり、リードボーカルとして重要な役割を担ってきた。
2026年6月8日には、所属事務所G-STAR.PROと純烈の公式発表を通じて、白川が2027年3月末をもってグループを卒業することが明らかになった。
卒業を決断した理由は?母親との別れと自身の人生への向き合い
2026年6月8日の記者会見では、白川本人が卒業を決めた背景について説明した。
テレビ朝日の報道によれば、白川は卒業について約5年前から考えており、メンバーにも伝えていたという。そして、2025年10月に母親が亡くなったことをきっかけに、自分の中で純烈を続けるモチベーションが変化したと明かした。
白川にとって母親は、力士を目指した時代から俳優時代、純烈での活動に至るまで、人生の大きな原動力となっていた存在だった。
本人は卒業発表の中で、自分自身の人生と向き合い、何度も考えた末に決断したと説明している。今回の卒業は、けがによって相撲を引退したときとは異なり、自身の人生や今後の時間を見つめ直した上での選択だ。
卒業日は2027年3月31日。事務所には引き続き所属
所属事務所の2026年6月8日付の公式発表では、卒業後も白川はG-STAR.PROの所属アーティストとして在籍すると明記されている。
また、卒業後は本人の時間と家族との時間を大切にし、今後の活動については本人のペースを尊重した上で改めて発表するとしている。
白川自身も、卒業発表のコメントで次のように伝えている。
「一度立ち止まり肉体的にも精神的にもしっかりと充電をさせていただき、また皆様の場所に純烈としてではなく白川裕二郎として戻ってきたいと思います。」
この言葉から分かるのは、純烈からの卒業が芸能活動そのものの引退を意味するわけではないということだ。
2027年3月31日までは純烈のメンバーとして活動を続け、その後はいったん充電期間を設ける意向を示している。ソロ活動の具体的な内容や再始動の日程については、所属事務所からの今後の発表が待たれる。

【よくある質問】白川裕二郎の力士時代に関するFAQ
Q1:白川裕二郎は本当に元力士だった?
A1:本当である。1995年に大相撲の朝日山部屋へ入門し、初土俵を踏んだ。芸能界に入る前に実際に力士として活動していた。
Q2:白川裕二郎の四股名は何だった?
A2:「綱ノ富士(つなのふじ)」である。出身地の横浜市綱島から「綱」、憧れの横綱・千代の富士から「富士」を取って名付けられた。
Q3:白川裕二郎の力士時代の最高位は?
A3:最高位は序二段99枚目。関取に昇進する前に引退している。
Q4:白川裕二郎が相撲を引退した理由は?
A4:けがが原因で、腰痛の悪化も報じられている。現役期間は約1年だった。
Q5:力士時代の体重は何キロだった?
A5:105キロまで増えていた。本人によると、毎日ご飯を一升食べて体重を増やしたという。
Q6:白川裕二郎は現在も純烈に所属している?
A6:2026年11月現在、純烈のメンバーとして活動中。2027年3月31日にグループを卒業する予定だが、所属事務所G-STAR.PROには卒業後も在籍する。
Q7:純烈卒業後は芸能界を引退する?
A7:芸能界からの引退を発表したわけではない。本人は充電期間を設けた後、純烈ではなく白川裕二郎として再びファンの前に戻りたいという意向を示している。
まとめ:白川裕二郎の力士時代は俳優・歌手人生の原点
白川裕二郎は、1995年に朝日山部屋へ入門した元大相撲力士である。四股名は「綱ノ富士」。横浜市綱島への思いと、憧れの横綱・千代の富士にちなんだ名前だった。
最高位は序二段99枚目、力士時代の体重は105キロ。けがや腰痛の問題によって約1年で引退したが、その後は母親の勧めで俳優の道へ進み、『忍風戦隊ハリケンジャー』の霞一甲役で注目を集めた。
さらに2007年の純烈結成、2010年のメジャーデビューを経て、リードボーカルとして多くのファンに愛される存在となった。
2026年11月現在、白川は純烈の一員として活動を続けている。しかし、2027年3月31日にはグループを卒業する予定だ。卒業後も所属事務所に在籍し、本人のペースで新たな活動を模索していく。
相撲、俳優、歌手という異なる世界を歩んできた白川裕二郎。力士時代の挫折は、その後の人生を切り開く転機にもなった。2027年春の卒業は一つの節目となるが、白川裕二郎という個人の物語は、その先にも続いていく。
主な確認資料: 所属事務所G-STAR.PROの2026年6月8日付公式発表、日刊SPA!の本人インタビュー、スポニチの2022年・2026年の報道、デイリースポーツの2018年報道、テレビ朝日の2026年6月8日の記者会見報道。
(出典: 白川 裕二郎 力士(Yahoo!ニュース))