輪島大士とは?第54代横綱の記録と黄金の左、引退後の波瀾万丈な生涯を徹底解説【2026年版】

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輪島大士とは?第54代横綱の記録と黄金の左、引退後の波瀾万丈な生涯を徹底解説【2026年版】
輪島大士とは?第54代横綱の記録と黄金の左、引退後の波瀾万丈な生涯を徹底解説【2026年版】
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🎵 輪島大士とは?第54代横綱の記録と黄金の左、引退後の波瀾万丈な生涯を徹底解説【2026年版】

輪島大士(わじま・ひろし)は、昭和の大相撲を代表する第54代横綱である。本名は輪島博。日本大学相撲部で学生横綱に輝き、1970年に花籠部屋から初土俵を踏むと、わずか3年半ほどで横綱に昇進した。幕内優勝14回、生涯戦歴673勝234敗85休という輝かしい記録を残し、「黄金の左」と呼ばれた左下手投げで多くの強豪を圧倒した。

一方、引退後は花籠親方として部屋を継承したものの、年寄名跡を担保にした借金問題によって相撲協会を離れ、1986年には全日本プロレスへ転向。さらに晩年はがんとの闘病を経験し、2018年10月8日に70歳で亡くなった。2026年現在も、その実績と異色のキャリアは昭和相撲史を振り返るうえで欠かせない存在となっている。

📌 【この記事の重要ポイントまとめ】

  • 人物:輪島大士の読み方は「わじま・ひろし」。本名は輪島博で、第54代横綱として活躍した。
  • 相撲の実績:生涯戦歴673勝234敗85休、幕内優勝14回。「黄金の左」と北の湖との輪湖時代で知られる。
  • 引退後:花籠親方を経て1986年に全日本プロレスへ転向。2018年10月8日、下咽頭がんと肺がんの影響による衰弱で死去した。

【基本プロフィール】輪島大士の読み方・本名・第54代横綱としての人物像

輪島大士は、1948年1月11日に石川県七尾市で生まれた元大相撲力士である。昭和48年(1973年)7月場所に第54代横綱へ昇進し、昭和56年(1981年)3月場所まで横綱を務めた。

日本相撲協会の歴代横綱プロフィールによると、現役時代の身長は184.5cm、体重は125kg。所属部屋は花籠部屋で、得意技は左四つ、下手投げ、寄り切りだった。

輪島大士のプロフィール一覧

項目内容
名前輪島大士
読み方わじま・ひろし
本名輪島博
生年月日1948年1月11日
出身地石川県七尾市
最終学歴日本大学卒業
所属部屋花籠部屋
最高位第54代横綱
横綱昇進1973年7月場所
横綱引退1981年3月場所
幕内優勝14回
生涯戦歴673勝234敗85休
得意技左四つ・下手投げ・寄り切り
死去2018年10月8日(70歳)

なお、四股名の「大士」は「ひろし」と読む。読み方が難しいことから、現在でも「輪島大士 読み方」と検索する人は少なくない。

本名の輪島博と四股名の輪島大士は、名字の部分が共通している。力士として活動を始めた当初は「輪島博」の名で土俵に上がり、1972年11月に「輪島大士」へ改名した記録が残っている。

輪島の特徴は、単に体格や腕力に恵まれていたことだけではない。学生相撲で培った技術、優れた運動能力、相手の動きを読む判断力を組み合わせ、独自の取り口を完成させた点にある。

また、横綱でありながら大学を卒業してから角界入りした経歴も異色だった。伝統的な相撲界において、大学相撲出身者が最高位まで上り詰めたことは、その後の学生相撲出身力士の評価にも影響を与えた。

輪島大士の当時の様子・関連報道写真
【検証資料 1】輪島大士の当時の様子・関連報道写真(出典:Yahoo!ニュース)

【学生横綱から横綱へ】日本大学・花籠部屋で築いた異例の出世街道

輪島大士の強さを理解するには、プロ入り前の学生相撲時代を知る必要がある。

金沢高校から日本大学相撲部へ

輪島は石川県内の金沢高校で相撲に取り組み、その後、日本大学へ進学した。大学では相撲部の中心選手として活躍し、3年生と4年生の2年連続で学生横綱に輝いている。

日刊スポーツの2018年の追悼記事によると、大学時代には学生横綱を含む14のタイトルを獲得した。学生相撲で確かな実績を残したことが、プロ入り後の早期出世につながった。

大学卒業後、輪島は花籠部屋に入門。1970年1月場所、幕下付け出しで初土俵を踏んだ。

通常、力士は序ノ口など下位の番付から昇進を重ねる。しかし、学生相撲で優れた実績を残した輪島には幕下付け出しが認められ、最初から高い番付で競技生活を始めることができた。

初土俵から約3年半で第54代横綱へ

輪島の出世速度は驚異的だった。1970年5月場所に新十両、1971年1月場所に新入幕を果たし、1972年11月には大関へ昇進。そして1973年7月場所、第54代横綱となった。

日本相撲協会の公式プロフィールでも、この昇進経歴が確認できる。初土俵から横綱昇進までの期間は約3年半。学生時代に培った実力を、短期間で幕内最高峰の舞台に適応させたことが分かる。

輪島の成功は、大学相撲がプロの大相撲でも通用することを強く印象づけた。学生時代の競技経験が単なる実績にとどまらず、プロ入り後の即戦力として評価された点に意味がある。

【673勝・優勝14回】黄金の左と輪島大士の圧倒的な相撲実績

輪島大士の現役時代を象徴する数字は、生涯戦歴673勝234敗85休、幕内優勝14回である。

日本相撲協会の公式記録によると、幕内での通算成績は620勝213敗85休。殊勲賞3回、敢闘賞2回も受賞している。

生涯戦歴と主要な実績

記録項目成績
生涯戦歴673勝234敗85休
通算在位68場所
幕内戦歴620勝213敗85休
幕内在位62場所
幕内優勝14回
十両優勝1回
幕下優勝2回
殊勲賞3回
敢闘賞2回
技能賞0回

幕内優勝14回は、横綱としての実力を示す重要な記録だ。全勝優勝も3回記録しており、単に長期間上位に在籍しただけでなく、優勝争いの中心に立ち続けた力士だった。

「黄金の左」と呼ばれた下手投げの秘密

輪島を語るうえで欠かせないのが「黄金の左」である。

輪島の得意技は左下手投げ。相手の右腕の下から左腕を差し込み、相手の重心を崩しながら豪快に投げる技だった。相手と胸を合わせた状態からでも、絶妙なタイミングで体勢を入れ替えることができた。

ただし、黄金の左は左腕だけの力で成立していたわけではない。日本相撲協会の解説でも、輪島は右から相手を絞り、おっつけて動きを制限したうえで左下手投げを繰り出す取り口だったと紹介されている。

つまり、左腕の投げ技を最大限に生かすため、右腕と体全体を使って相手の自由を奪っていたのである。

黄金の左は本当に左腕だけが強かったのか

興味深いのは、輪島自身が「黄金の左」という呼び名について、少し違った見方をしていたことだ。

日刊スポーツが2019年に掲載した過去の取材記事では、輪島の言葉として次の発言が紹介されている。

「私の黄金の左は、マスコミが書き立てた伝説。本当は握力でも右の方が上だ」

この発言は、世間に定着したイメージと本人の技術的な自己評価の違いを示している。

左下手投げが代名詞になったのは間違いない。しかし、その威力を支えたのは右からの絞りや相手の体勢を崩す技術だった。輪島の強さは、一つの必殺技だけでは説明できない総合的な相撲技術にあった。

輪島大士の活動歴およびメディア掲載記録
【検証資料 2】輪島大士の活動歴およびメディア掲載記録(出典:Yahoo!ニュース)

【輪湖時代の真実】北の湖とのライバル関係と昭和の名勝負

輪島大士の横綱時代を語るうえで、最大の存在が第55代横綱・北の湖敏満である。

輪島と北の湖が競い合った時代は「輪湖時代(りんこじだい)」と呼ばれる。両者が優勝を争い、千秋楽の結びの一番で激突する姿は、昭和の大相撲を象徴する光景となった。

1974年名古屋場所で生まれた伝説の一番

輪湖時代を象徴する取組が、1974年7月の名古屋場所である。

当時、大関だった北の湖は前の場所で優勝し、横綱昇進を狙っていた。一方の輪島は、優勝争いで北の湖を追う立場だった。

千秋楽の本割では輪島が北の湖を左下手投げで破り、優勝決定戦でも同じ技で勝利。2番続けて宿敵を投げ飛ばし、逆転優勝を決めた。

この勝利は、輪島の黄金の左を象徴する名勝負として現在も語り継がれている。その後、北の湖が横綱に昇進し、両者による本格的な輪湖時代が始まった。

北の湖との対戦成績は23勝21敗

日刊スポーツの追悼記事などによると、輪島と北の湖の対戦成績は輪島の23勝21敗。数字が示すとおり、両者は極めて拮抗したライバル関係にあった。

1976年から1977年にかけては、両者が激しい優勝争いを展開。2年間でそれぞれ5回ずつ優勝するなど、互いの存在が相手の実力を引き上げる関係だった。

輪島と関係の深い人物・組織の相関表

人物・組織輪島との関係主な接点
日本大学母校相撲部で2年連続学生横綱
花籠部屋所属部屋1970年に入門、引退後は部屋を継承
貴ノ花同時代のライバル・親友大関時代から貴輪時代を形成
北の湖最大の横綱ライバル輪湖時代を築き、対戦成績は23勝21敗
花籠親方引退後の立場年寄名跡問題で1985年に角界を離れる
ジャイアント馬場プロレス転向後の指導者全日本プロレスへの入門を受け入れる
全日本プロレス引退後の所属団体1986年にプロレスデビュー

輪島には北の湖だけでなく、同じ時代に活躍した大関・貴ノ花との関係もあった。貴ノ花とは大関昇進をめぐる時期から注目され、両者の人気と競争関係は「貴輪(きりん)時代」とも呼ばれた。

北の湖との輪湖時代だけを切り取ると、輪島は北の湖のライバルという印象が強い。しかし、貴ノ花との関係も含めて見ることで、当時の相撲界が複数の人気力士によって盛り上がっていたことが理解できる。

また、輪島が北の湖に勝ち越していたことも見逃せない。優勝回数24回を誇る北の湖に対して、輪島は最後まで対戦成績で上回った。強大なライバルの存在が、双方の横綱としての価値を高めたのである。

【引退理由と花籠親方】年寄名跡問題で相撲協会を離れた経緯

輪島大士の人生には、横綱としての華々しい成功とは対照的な転機もあった。それが、1981年の現役引退と、その後に起きた年寄名跡問題である。

1981年3月場所で現役引退

輪島は1981年3月場所を最後に現役を引退した。日本相撲協会の公式プロフィールでも、昭和56年3月場所が引退場所として記録されている。

引退後は花籠部屋を継承し、花籠親方として後進の指導にあたる立場になった。現役時代に培った経験を次世代へ伝える新しいキャリアが始まったのである。

ここで注意したいのは、1981年の力士としての引退と、1985年の相撲協会からの離脱は別の出来事だという点だ。

年寄名跡を借金の担保にした問題

1985年、輪島が年寄名跡である花籠の名跡を借金の担保にしていた問題が発覚した。

年寄名跡とは、相撲協会に親方として所属するために必要となる資格に関係するものだ。現役を引退した力士が親方として協会に残り、部屋の運営や後進の育成に携わるうえで重要な意味を持っていた。

日刊スポーツの2018年の報道によると、輪島は1985年12月に相撲界を離れた。年寄名跡を借金の担保に入れたことが問題となり、花籠親方としての立場を失うことになった。

この一件によって花籠部屋も閉鎖され、所属していた力士たちは別の部屋へ移ることになった。

現役引退と角界廃業は混同しないことが大切

輪島の経歴を調べると、「引退理由は年寄名跡問題だった」という説明を見かけることがある。しかし、これは正確には二つの出来事を混同した表現である。

  • 1981年3月:横綱としての現役生活を終える。
  • 1981年以降:花籠部屋を継承し、花籠親方として活動する。
  • 1985年12月:年寄名跡を担保にした借金問題が発覚し、相撲協会を離れる。
  • 1986年:全日本プロレスに入門し、新しい競技生活を始める。

つまり、年寄名跡問題は横綱としての引退そのものの理由ではなく、引退後に親方として活動していた輪島が角界を去る原因となった問題である。

横綱として築いた地位と実績があっても、親方としての活動には相撲協会の制度や年寄名跡の取り扱いが深く関係する。輪島のケースは、力士としての成功と組織運営上の立場が必ずしも一致しないことを示す出来事だった。

輪島大士に関する近況・インタビュー報道記録
【検証資料 3】輪島大士に関する近況・インタビュー報道記録(出典:Yahoo!ニュース)

【全日本プロレスへの転向】横綱からプロレスラーになった異色の第二の人生

相撲協会を離れた輪島は、1986年にジャイアント馬場が率いる全日本プロレスへ入門した。

大相撲の横綱がプロレスラーに転向するという選択は、当時のスポーツ界でも大きな話題となった。横綱として全国的な知名度を持つ輪島の参戦は、プロレス界にとっても注目度の高い出来事だった。

1986年11月1日、故郷・七尾市でプロレスデビュー

輪島の国内デビュー戦は、1986年11月1日に石川県七尾市の七尾総合市民体育館で行われた。対戦相手はタイガー・ジェット・シンだった。

ベースボール・マガジン社の『週刊プロレス』関連資料によると、試合は5分55秒で両者反則という結果に終わった。

デビュー戦では、ジャイアント馬場から教わった空手チョップなどを披露。相撲時代の突っ張りも取り入れ、プロレスラーとしての新しいスタイルを模索した。

このデビュー戦には多くのテレビ局や新聞社が取材に訪れ、元横綱の新しい挑戦に大きな注目が集まった。

なぜプロレスで活躍できたのか

輪島がプロレス界で注目された最大の理由は、競技実績だけでなく、横綱としての圧倒的な知名度にあった。

全日本プロレスを率いていたジャイアント馬場にとっても、輪島の参戦は興行の話題性を高める大きな材料だった。報道では、馬場が輪島に特別なトレーニング環境を用意し、プロレスラーとしての技術を教えたことが紹介されている。

一方で、相撲とプロレスは同じ格闘技系の競技でも、試合形式や求められる技術が異なる。相撲で横綱になった経験が、そのままプロレスでの成功につながるわけではなかった。

輪島は約3年でプロレスラーを引退した。1988年にはリングを離れている。

プロレス転向を単純な成功・失敗で評価するのは適切ではない。38歳で新しい競技に挑み、横綱という肩書に頼らず別の世界で活動したこと自体が、輪島のキャリアを特徴づけている。

プロレス引退後の活動

プロレスラーを引退した後、輪島は学生援護会のアメリカンフットボール部で総監督を務めるなど、スポーツ分野で活動した。また、テレビ番組への出演などタレントとしても知られるようになった。

相撲、プロレス、アメリカンフットボール、テレビ出演と、活動領域は幅広い。横綱としての名声を持ちながら、異なる分野に進んだ点は、同時代の力士の中でも際立った特徴だった。

【死因と晩年】2018年10月8日に70歳で死去した輪島大士

輪島大士は2018年10月8日、東京都世田谷区の自宅で亡くなった。享年70歳だった。

日刊スポーツやデイリースポーツなどの報道によると、死因は下咽頭がんと肺がんの影響による衰弱だった。

晩年はがんとの闘病生活を送っていた

輪島は亡くなる前から、咽頭がんの手術を受けていたことが報じられている。2015年に北の湖が亡くなった際には、すでに発声が困難な状態だったため、文書でコメントを発表していた。

そのコメントでは、長年のライバルだった北の湖への驚きと寂しさを伝え、相手の運動能力や相撲の頭の良さをたたえていた。

特に思い出深い一番として挙げたのが、1974年7月の名古屋場所である。本割と優勝決定戦の両方で北の湖を下手投げで破った取組は、輪島自身にとっても忘れがたい勝負だった。

輪湖時代を築いたライバルへの思い

輪島と北の湖は、土俵上では優勝を争う宿敵だった。しかし、互いの存在を高く評価していたことも報道からうかがえる。

北の湖は2015年11月に亡くなり、輪島もその約3年後にこの世を去った。昭和の大相撲を象徴する二人の横綱が相次いで亡くなったことは、輪湖時代を知る相撲ファンにとって大きな節目となった。

2018年10月15日に営まれた葬儀・告別式には、日本相撲協会関係者やスポーツ界の関係者ら約300人が参列したと報じられている。

輪島の生涯は、横綱としての輝かしい実績だけでなく、親方としての挫折、プロレスへの転向、病との闘いまでを含む波瀾万丈のものだった。

【プロの結論】輪島大士が昭和相撲史に残した本当の功績

輪島大士の功績を評価するとき、幕内優勝14回や673勝という数字だけに注目するのでは不十分だ。彼の存在が持つ意味は、少なくとも三つの視点から理解できる。

1. 学生相撲出身者の可能性を広げた

輪島は日本大学で学生横綱となり、卒業後に幕下付け出しで初土俵を踏み、短期間で横綱まで昇進した。

これは、伝統的な相撲部屋で幼少期から修業を積む道だけでなく、大学相撲で技術と実績を身につけてからプロ入りする道にも大きな可能性があることを示した。

学生相撲出身者が大相撲で活躍する道筋を語る際、輪島は重要な先駆者として位置づけられる。

2. 黄金の左は総合的な技術の象徴だった

輪島の下手投げは、単純な腕力勝負ではなかった。右から相手を絞り、左を差し、相手の重心を見極めて投げるという一連の技術が組み合わさっていた。

そのため、黄金の左は単なる必殺技の愛称ではなく、輪島独自の相撲の完成度を象徴する言葉として理解するのが適切だ。

3. 北の湖との競争が相撲人気を支えた

輪島と北の湖は、互いに相手を倒すために技術や戦術を磨き続けた。対戦成績が23勝21敗という接戦だったことも、二人の関係を象徴している。

強いライバルがいることで、一方の横綱の優勝もより価値を持つ。輪湖時代は、単独のスター選手だけでなく、競争関係そのものが大相撲の魅力を生み出した時代だった。

一方、親方時代の年寄名跡問題やプロレス転向についても、相撲の実績とは分けて評価する必要がある。土俵での功績と、その後の人生における出来事は、どちらも輪島大士という人物を理解するための重要な要素である。

輪島大士に関するよくある質問(FAQ)

Q1:輪島大士の読み方は何ですか?
A1:輪島大士は「わじま・ひろし」と読みます。本名は輪島博です。1972年11月に四股名を輪島博から輪島大士へ改めました。

Q2:輪島大士は第何代横綱ですか?
A2:第54代横綱です。1973年7月場所に横綱へ昇進し、1981年3月場所まで横綱を務めました。

Q3:輪島大士の生涯戦歴と優勝回数は?
A3:生涯戦歴は673勝234敗85休、幕内戦歴は620勝213敗85休です。幕内優勝は14回で、全勝優勝も3回記録しています。

Q4:黄金の左とは何ですか?
A4:輪島の得意技である左下手投げを表す愛称です。右から相手を絞り、左を差して投げる技術が特徴で、昭和の大相撲を代表する必殺技として知られています。

Q5:輪島大士と北の湖の対戦成績は?
A5:報道で紹介されている対戦成績は輪島の23勝21敗です。二人は輪湖時代と呼ばれる黄金期を築きました。

Q6:輪島大士が相撲界を離れた理由は何ですか?
A6:1981年に現役を引退した後、花籠部屋を継承しました。しかし、1985年に花籠の年寄名跡を借金の担保にしていた問題が発覚し、相撲協会を離れることになりました。現役引退と角界廃業は別の出来事です。

Q7:輪島大士はなぜプロレスラーになったのですか?
A7:相撲協会を離れた後、1986年にジャイアント馬場率いる全日本プロレスに入門しました。同年11月1日に故郷の石川県七尾市でデビューし、1988年にプロレスラーを引退しました。

Q8:輪島大士の死因は何ですか?
A8:2018年10月8日に70歳で亡くなりました。報道によると、死因は下咽頭がんと肺がんの影響による衰弱です。

まとめ:輪島大士は記録と挑戦の両面で記憶される名横綱

輪島大士は、日本大学の学生横綱から大相撲の頂点へ駆け上がった第54代横綱である。生涯戦歴673勝234敗85休、幕内優勝14回という実績を残し、黄金の左と呼ばれた左下手投げで昭和の相撲史に名を刻んだ。

北の湖との輪湖時代は、二人の横綱が互いに競い合うことで生まれた大相撲の黄金期だった。1974年名古屋場所での逆転優勝をはじめ、数々の名勝負は今も語り継がれている。

引退後には花籠親方として部屋を継承したものの、年寄名跡問題によって角界を離れ、その後は全日本プロレスに転向した。1988年のプロレス引退後もスポーツや芸能の分野で活動を続けた。

2018年10月8日に70歳で亡くなった輪島だが、その功績は単なる優勝回数や勝敗の記録にとどまらない。大学相撲出身者の可能性を示し、北の湖という最高のライバルと時代を築き、引退後も新しい世界へ挑戦した人物だった。

2026年に輪島大士の生涯を振り返るなら、横綱としての圧倒的な強さと、土俵を離れた後も自分の道を切り開こうとした挑戦者としての姿、その両方を知ることが重要である。

昭和の相撲史に残る「黄金の左」は、今も輪島大士という横綱を象徴する言葉であり続けている。


主な参考資料・出典 (出典: 輪島 大 士(Yahoo!ニュース))

  • 日本相撲協会「歴代横綱・第54代横綱 輪島」公式プロフィール
  • 日本相撲協会「大相撲クイズ」輪島の黄金の左に関する解説
  • 日刊スポーツ「輪島さん死去 波瀾万丈の70年、最期はひっそり」(2018年10月10日)
  • 日刊スポーツ「輪島さん 借金、親方廃業、『大事件』プロレス入り」(2018年10月10日)
  • 日刊スポーツ「黄金の左、のど輪落とし/輪島さん波瀾万丈人生」(2018年10月10日)
  • ベースボール・マガジン社「元・横綱の輪島がプロレスデビュー!」
  • 日刊スポーツ「黄金の左はマスコミが書き立てた伝説。本当は握力でも右の方が上だ」(2019年1月15日)
  • デイリースポーツ「輪島さん、北の湖さんの訃報時にはすでに声は出ず」(2018年10月9日)
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