久米通賢(久米栄左衛門)は何をした人?坂出塩田と測量・発明の功績を徹底解説

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久米通賢(久米栄左衛門)は何をした人?坂出塩田と測量・発明の功績を徹底解説
久米通賢(久米栄左衛門)は何をした人?坂出塩田と測量・発明の功績を徹底解説
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🎵 久米通賢(久米栄左衛門)は何をした人?坂出塩田と測量・発明の功績を徹底解説

久米通賢(くめつうけん、1780~1841年)は、江戸時代後期に高松藩で活躍した科学技術者、測量家、発明家、そして坂出塩田開発を指揮した人物です。本名・通称に関わる表記として「久米栄左衛門」の名でも知られています。現在の香川県東かがわ市に生まれ、大坂の天文学者・間重富に師事して天文暦学や測量術を学びました。その知識を生かして高松藩の領内測量や地図製作、天体観測、銃砲の改良、土木事業など幅広い分野で功績を残しています。

なかでも代表的な仕事が、1826年(文政9年)に着工した坂出塩田の開発です。高松藩の財政再建を目的に自ら計画を提案し、普請奉行として工事を指揮。約132ヘクタールに及ぶ塩田の造成に貢献しました。2026年は、この大規模開発の着工から200年にあたります。国指定重要文化財「久米通賢関係資料」や坂出市の公的記録、鎌田共済会郷土博物館の2026年の展示資料から、その技術力と歴史的な役割を読み解きます。

📌 【この記事の重要ポイントまとめ】

  • 人物像:久米通賢は1780年生まれ、1841年没の高松藩の科学技術者で、久米栄左衛門の名でも知られる。
  • 最大の功績:1826年に坂出塩田開発を開始し、入浜式塩田の技術を改良した「久米式塩田」を築いた。
  • 歴史的価値:測量・天文学・土木・発明に関する1,061点の関係資料が、2014年に国の重要文化財に指定された。

【人物像を解説】久米通賢(久米栄左衛門)は何をした人なのか?

久米通賢は、一つの専門分野だけで活動した学者ではありません。天文学を学び、測量器具を自作し、藩内の地図を作成し、さらに土木工事や産業振興まで手がけた、実践型の科学技術者でした。

特に重要なのは、学問で得た知識を現実の社会問題に応用した点です。測量技術は土地の把握や干拓工事に、天文学は暦や天体観測に、機械製作の知識は揚水装置や銃砲の改良に活用されました。

久米通賢の基本プロフィール

  • 人物名:久米通賢
  • 別名・通称:久米栄左衛門
  • 生年:1780年(安永9年)
  • 没年:1841年(天保12年)
  • 出身地:讃岐国大内郡馬宿村(現在の香川県東かがわ市馬宿)
  • 主な活動地域:讃岐国、高松藩領、坂出など
  • 師:間重富
  • 主な専門分野:天文学、暦学、測量、地図製作、土木、機械製作、砲術
  • 代表的な功績:高松藩領内の測量、坂出塩田開発、測量器具や各種機械の製作

生まれたのは、現在の東かがわ市にあたる馬宿村です。坂出市の人物紹介では、船かじ作り職人の子として誕生したとされています。武家の家系から出た人物ではなく、技術と知識によって高松藩に登用された点も特徴的です。

「通賢」の読み方は「つうけん」か「みちかた」か

久米通賢の読み方には、少し注意が必要です。現在は一般に「くめつうけん」と呼ばれていますが、国土地理院の人物紹介では「くめみちかた」と表記されています。四国電力の広報誌も、「みちかた」と推測される一方で「つうけん」の読みが一般化していると説明しています。

そのため、歴史上の人物を指す一般的な呼称としては「久米通賢(くめつうけん)」を用い、読みの違いは史料上の問題として理解するのが適切です。

久米通賢の当時の様子・関連報道写真
【検証資料 1】久米通賢の当時の様子・関連報道写真(出典:Yahoo!ニュース)

【生涯・年表】間重富との師弟関係から高松藩での活躍まで

久米通賢の人生を理解するうえで重要なのは、1798年の大坂留学、1806年の高松藩領内測量、1808年の伊能忠敬との接点、そして1826年の坂出塩田開発です。

これらの出来事は別々の活動に見えますが、天文学や測量術を習得し、それを藩の実務や地域開発に応用していく一連の流れとして捉えられます。

久米通賢の生涯を年代別に整理

年代出来事・活動関係人物・歴史的意義
1780年讃岐国馬宿村に誕生現在の香川県東かがわ市
1798年大坂で間重富に入門天文暦学・数学・測量術を学ぶ
1802年父の死去に伴い帰郷し、家を継ぐその後、高松藩に召し出される
1806年高松藩領内の測量を開始自作の地平儀などを使用
1807年測量・天体観測を継続観測結果を間重富側へ報告
1808年伊能忠敬の讃岐測量に協力接待・案内役として活動
1809年高松藩の天文測量方となる久米姓を名乗ることを認められる
1816年大坂で人工滝の見世物を興行揚水機構を応用した機械技術
1817年揚水機器「自然水」を製作機械・動力利用の研究
1824年坂出塩田開発計画を藩に提出高松藩主・松平頼恕に財政再建策を提案
1826年坂出塩田の開発工事に着手普請奉行として事業を指揮
1829年坂出墾田の主要部分が完成阪出墾田之碑が建立される
1833年坂出塩田の各新開地が完成西新開・中(東)新開・江尻新開
1836年藩の役目を退く馬宿村へ帰郷
1841年故郷の馬宿村で死去享年については資料により数え方が異なる

この年表は、鎌田共済会郷土博物館の略年表や国土地理院、坂出市の資料をもとに整理したものです。特に坂出塩田の完成については、1829年に主要な工事がほぼ完成し、その後も整備が続き、博物館の略年表では1833年に各新開地が完成したとされています。

間重富との師弟関係が技術者としての出発点

久米通賢は1798年(寛政10年)、19歳のときに大坂へ赴き、天文学者の間重富に弟子入りしました。

間重富は1756年生まれの天文学者で、麻田剛立の門下で学び、寛政の改暦にも関わった人物です。暦学だけでなく、観測機器や測量機器の研究にも取り組んでいました。

通賢は間重富のもとで約4年間、数学、天文暦学、地理、測量術を学びました。この経験が、帰郷後の高松藩領内測量や天体観測の基礎になります。

興味深いのは、帰郷後も間重富との学術的なつながりが続いていたことです。鎌田共済会郷土博物館の収蔵資料には、日食・月食・彗星などの観測記録が残されており、通賢は観測結果を間家に送っていました。

単に師匠から知識を受け取っただけではなく、地方に戻ってからも観測と記録を続け、学術的な交流を保っていたことが分かります。

高松藩に登用された異色の技術者

1802年に帰郷した通賢は、その年に高松藩へ召し出されました。藩士の家柄ではなかったものの、専門的な知識と機械製作の技術が評価され、藩の実務を担うようになります。

1809年には天文測量方としての役目を認められ、久米姓を名乗ることも許されました。これは、当時の身分秩序のなかで、専門技術が藩の人材登用に結びついた事例として興味深いものです。

高松藩にとって、通賢の能力は単なる学問上の価値にとどまりませんでした。領内の地理を把握することは行政や土地管理に直結し、港湾・干拓事業の設計は産業振興に役立ちます。彼は科学知識を藩政に活用できる実務家だったのです。

【伊能忠敬との関係と測量技術】久米通賢は何が優れていたのか

久米通賢と伊能忠敬は、江戸時代後期の日本の地図製作史を考えるうえで欠かせない同時代の測量家です。ただし、両者の関係を単純な共同研究や師弟関係として説明するのは正確ではありません。

伊能忠敬の讃岐測量で案内・接待役を担当

1808年(文化5年)、伊能忠敬の測量隊が讃岐を訪れた際、通賢は高松藩から接待・応接役を命じられました。国土地理院の紹介では案内役として参加したと説明されています。

通賢は伊能隊の活動を支えながら、自身も高松藩領内の測量や日食観測などに取り組んでいました。研究論文では、両者が約2か月間行動をともにしたと整理されています。

しかし、ここで押さえておきたいのは、伊能忠敬と通賢の間に継続的な共同研究があったと確認できるわけではないことです。

2020年の中村士による『地学雑誌』掲載論文では、両者の史料を検討した結果、通賢が自身の讃岐測量について忠敬に詳しく語った形跡や、共通の師である間重富について話題にした記録は見つからないと指摘しています。

したがって、両者の関係は、讃岐測量における案内・接伴と、同時代の高度な測量技術を担った技術者同士という位置づけで理解するのが妥当です。

久米通賢が自作した測量器具と精密な測定

通賢の大きな特徴は、測量を行うだけでなく、そのために必要な器具を自分で考案・製作していたことです。

代表的な器具には、地平儀、八分儀、象限儀などがあります。これらは角度や方位を測定するための器具で、測量地点の位置関係を把握し、地図を作成するために利用されました。

特に注目されるのが、地平儀などに採用されたバーニヤ副尺です。これは主目盛りの間隔より細かな数値を読み取るための補助目盛りで、測定精度を高める仕組みです。

中村士の2020年の研究では、通賢が使用した測量器具について、バーニヤ副尺を取り入れた点が当時として珍しく、方位角の測定精度は約2分に達したと分析されています。同論文では、伊能忠敬の『山島方位記』に記された方位角の精度と比較し、約5分という数値を示しています。

ただし、この比較は特定の角度測定についての分析です。全国地図全体の完成度や測量事業全体の優劣を意味するものではありません。

通賢の測量技術が優れていた理由は、器具を自作し、目盛りの読み取り方法まで工夫し、実際の地形測量に応用した点にあります。

讃岐全図と測量史上の意義

1806年から始まった高松藩領内の測量は、伊能忠敬が讃岐を測量する1808年より前に行われています。

測量結果を記録した野帳、測量絵図帳、地図の下書きなどは現在も残されており、鎌田共済会郷土博物館などで保管されています。2002年には讃岐全図の下図とされる大型の図面が再発見され、地図製作の過程を研究するうえで重要な資料となりました。

中村士の研究では、この下図は東西2枚で構成され、縮尺は約1万2,000分の1と分析されています。伊能忠敬の全国測量とは異なる形で、地方の測量家が高い精度の地図製作に取り組んでいたことを示す成果です。

久米通賢の活動歴およびメディア掲載記録
【検証資料 2】久米通賢の活動歴およびメディア掲載記録(出典:Yahoo!ニュース)

【最大の功績】1826年に始まった坂出塩田開発と久米式塩田

久米通賢の名前を香川県の歴史に深く刻んだのが、坂出塩田の開発です。

この事業は単なる土地の埋め立てではありませんでした。高松藩の財政を立て直すために、製塩業という継続的な収入源を新たにつくる経済政策でもあったのです。

1824年の計画提出から1826年の着工へ

当時の高松藩は財政難に直面していました。藩内の人々の暮らしも厳しく、収入を増やすための産業振興策が求められていました。

そこで通賢は、遠浅の海が広がる坂出沖に着目します。沿岸測量を通じて地形を把握していた彼は、坂出が塩田開発に適した土地であると考えました。

1824年(文政7年)10月、通賢は塩田開発の建白書と設計図を高松藩に提出します。計画には、塩田の造成だけでなく、砂糖の生産・流通に関する政策も含まれていました。

鎌田共済会郷土博物館が2026年春に発行した館報では、通賢が着工前に赤穂、撫養、多喜浜、竹原、三田尻などの製塩地を調査し、売買価格や流通費用、収益構造を調べていたことが紹介されています。

つまり、通賢は単に土地を見て塩田を造ろうとしたのではありません。先進地域の製塩業を調査し、収益が成り立つかどうかを検討したうえで、藩に計画を提案していたのです。

そして1826年(文政9年)、高松藩は計画を採用。通賢は坂出墾田の普請奉行に任命され、実際の工事が始まりました。

約132ヘクタールの開拓を指揮

坂出市の公式紹介によると、この開発には藩から約2万両の工費が投入されました。さらに延べ約194万人の人夫が動員され、通賢自身も私財を投じて事業を進めたと伝えられています。

1829年(文政12年)には東大浜・西大浜を含む約132ヘクタールの開墾が実現しました。これは、当時の土木技術や資金調達の規模を考えると、非常に大きな事業です。

なお、坂出市デジタルアーカイブの「阪出墾田之碑」の解説には、塩田・付属地115町余と畑地116町余を合わせた総面積231町余という記録もあります。これは塩田だけでなく、周辺の開墾地も含む数値です。132ヘクタールという市の紹介と、対象範囲の異なる記録を同じ面積として扱わないことが大切です。

久米式塩田とは?入浜式塩田を改良した技術

坂出塩田は、基本的に入浜式塩田という製塩方式を採用していました。

入浜式塩田とは、潮の満ち引きを利用して海水を塩田に取り込み、日光や風によって水分を蒸発させ、塩分濃度の高い鹹水(かんすい)をつくる方法です。その後、釜屋で鹹水を煮詰めることで塩を生産します。

通賢が手がけた坂出塩田は、技術的な工夫が評価され、「久米式塩田」と呼ばれるようになりました。

特に注目されるのが、海水を取り込む取水口と、雨水を排出する排水口を分ける設計です。

従来の塩田では、取水口と排水口を兼用する場合がありました。そのため雨が降ると塩田に水がたまり、排水や乾燥が進むまで製塩作業を再開しにくいという問題がありました。

通賢の設計では、排水を速やかに行えるように工夫することで、雨天後の作業再開を早め、塩田の稼働日数と生産性を高めることが期待されました。

また、塩田の設計図には、堤防や水路、釜屋、周辺設備の配置なども詳細に記録されています。土地造成だけではなく、製塩工程全体を見通した設計だったことが分かります。

坂出の発展と塩業の基盤を築いた

坂出塩田の完成は、地域の産業構造を変える転機となりました。塩の生産と流通が活発になり、関連する労働や商業も発展していきます。

坂出市が塩の町として発展する基礎には、通賢が設計・指揮した大規模な新開地がありました。後世の塩田開発にも「久米式塩田」はモデルとして影響を与えたと坂出市の塩業史資料は説明しています。

通賢の功績は、単に塩を多く生産できる土地を造ったことではありません。測量、土木、製塩技術、収支計算、労働力の調整を一体化し、地域に継続的な産業基盤を築いた点にあります。

【発明・功績】天文学から機械製作、銃砲の改良まで

久米通賢は坂出塩田開発だけでなく、多分野にわたる発明や研究でも知られています。国指定重要文化財に含まれる資料からも、彼が科学技術を幅広く研究していたことが確認できます。

天文学・測量関係の発明

通賢は帰郷後も天体観測を継続し、日食・月食・彗星などの観測記録を残しました。

関連資料には、天体観測に用いた星眼鏡(望遠鏡)、天球儀、渾天儀などが含まれています。観測結果を記録するだけでなく、器具そのものを製作していた点も特徴です。

地平儀や八分儀、象限儀などの測量機器も、通賢の技術力を示す重要な成果です。測量の現場で必要となる機能を理解し、器具の構造や目盛りに工夫を加えていました。

揚水機器「自然水」と人工滝の興行

通賢の発明は、天文学や測量だけにとどまりません。

1816年には、大坂で揚水ポンプを利用した人工滝の見世物興行に関わりました。翌1817年には「自然水」と呼ばれる機器を製作しています。

鎌田共済会郷土博物館には、この人工滝の興行で使用されたチラシの印刷木版も残されています。機械技術を実用だけでなく、一般の人々に見せる興行にも応用していたことが分かる資料です。

銃砲の改良と『武備機械鉤玄』

通賢は高松藩の海防や軍事技術にも関わり、銃砲の改良・製造を手がけました。

代表的な資料には、武器の種類や装備、使用法などを記した『武備機械鉤玄』があります。また、火矢筒「憤龍」や「百敵砲」に関する図面、鋼輪仕立銃などの製作記録も残っています。

特に「鋼輪」は、ぜんまい式の発火機構を利用した技術として知られています。火縄式の発火方式を改良するなど、当時の銃砲技術の発展に取り組んでいました。

さらに、雷汞(雷酸水銀)の製造実験に関する記録も伝わっています。これらの資料は、通賢が武器の設計だけでなく、材料や発火機構についても研究していたことを示しています。

ただし、こうした武器関連の業績は、当時の海防や藩の技術政策という歴史的背景のなかで理解する必要があります。通賢の研究全体を軍事技術だけで評価するのは適切ではありません。

砂糖政策・別子銅山・港湾改修にも関与

通賢の活動範囲は讃岐だけではありませんでした。

1827年には、愛媛県の別子銅山に関係する測量を行い、坑道の水抜き工事に必要な調査にも携わりました。1836年には遠州新居今切湊の改修設計を命じられ、計画図を提出した記録も残っています。

また、高松藩の財政再建に関しては、塩田開発だけでなく砂糖の生産・流通政策にも関心を持っていました。讃岐の特産品を藩の収入につなげようとした点からも、通賢が技術者であると同時に経世家としての側面を持っていたことが分かります。

久米通賢に関する近況・インタビュー報道記録
【検証資料 3】久米通賢に関する近況・インタビュー報道記録(出典:Yahoo!ニュース)

【重要文化財と歴史的評価】久米通賢の資料はなぜ貴重なのか

久米通賢の歴史的評価を考えるうえで欠かせないのが、現在まで伝わる膨大な関係資料です。

彼の業績は後世の人物紹介や伝承だけに依存しているわけではありません。測量器具、地図の下書き、観測記録、土木設計図、費用計算書、製作記録など、実際の活動を裏付ける一次資料がまとまって保存されています。

久米通賢関係資料1,061点が国の重要文化財に指定

坂出市の鎌田共済会郷土博物館が所蔵する「久米通賢関係資料」は、総数1,061点に及ぶ資料群です。

文化庁の国指定文化財等データベースによると、2014年8月21日に重要文化財(歴史資料)に指定されました。

その内容は、主に次のような分野に分類できます。

  • 測量・地図資料:測量野帳、測量絵図帳、地図の下書き、実測図など。
  • 天文学資料:日食・月食・彗星の観測記録、天体観測機器など。
  • 塩田開発資料:設計図、造成記録、費用見積書、塩の生産量や年貢収入の計算書など。
  • 機械・銃砲資料:武器の図面、製作記録、発明品の説明書、実験記録など。

これほど多様な資料がまとまっていることは、科学技術史の研究にとって大きな意味があります。

文化庁の解説では、19世紀前半の日本において、西洋由来の科学知識がどのように受け入れられ、実際の技術に活用されたかを示す資料群として評価されています。

2026年は坂出墾田着工200年の節目

2026年は、1826年に始まった坂出墾田の開発工事から200年にあたります。

鎌田共済会郷土博物館は2026年春の館報で、久米通賢資料室の展示テーマとして「坂出墾田開発工事開始から200年」を取り上げました。4月から9月までの展示では、通賢が塩業先進地を調査した記録や、塩田の収支を検討した『経済元録記』などが紹介されています。

この資料から読み取れるのは、通賢が開発工事に着手する前から、製塩業の経営実態を細かく調査していたことです。塩の販売価格、運送費、手数料、税金などを把握し、事業として成立するかを検討していました。

200年という節目は、完成した塩田の規模だけでなく、事業を成立させるために積み上げられた調査や計算にも目を向ける機会になっています。

坂出墾田之碑と阪出墾田之碑の違い

坂出市には、久米通賢の功績を後世に伝える石碑があります。正式な資料目録では「阪出墾田之碑」と表記されています。

この石碑は、1829年の坂出墾田完成を記念して高松藩主・松平頼恕が建立したものです。現在の坂出市京町にある菅原神社の境内に関係資料とともに伝わっています。

碑文は高松藩の儒学者・岡内棣、書は市河米庵、彫刻は江戸の名工とされた広瀬群鶴・群亀親子が担当しました。石材には宮城県の雄勝石が使われ、1829年12月に江戸から船で運ばれたと記録されています。

なお、ここで重要なのは、阪出墾田之碑と久米通賢関係資料の文化財指定を混同しないことです。久米通賢関係資料は国の重要文化財ですが、阪出墾田之碑は1957年に坂出市の文化財に指定されたものです。

久米通賢の歴史的評価と「讃岐のエジソン」という呼び名

久米通賢は、四国電力の広報誌などで「讃岐のエジソン」とも紹介されています。さまざまな分野で発明や改良に取り組んだ姿を、近代の発明家になぞらえた呼称です。

ただし、通賢を単なる発明家として理解するだけでは、その歴史的な価値を十分に捉えられません。

彼の本質は、学問・技術・経済・行政を結びつけた実務家だったことにあります。

例えば、測量技術は地図を作るだけでなく、干拓工事の設計に活用されました。天体観測で培った精密な観測能力は測量器具の製作にもつながりました。そして塩田開発では、土木技術と経営計算を組み合わせ、地域に新たな産業を生み出しました。

さらに、重要文化財に指定された1,061点の資料は、発明の完成品だけでなく、試行錯誤の記録や費用の計算、現場での測量記録まで伝えています。

こうした点を踏まえると、久米通賢は江戸時代後期における地方科学技術者の重要な一人であり、地域の課題を科学と技術によって解決しようとした人物として評価できます。

【久米通賢に関するよくある質問(FAQ)】

Q1:久米通賢は何をした人ですか?

A1:江戸時代後期の高松藩で活躍した科学技術者です。天文学、測量、地図製作、機械製作、銃砲の改良などに取り組み、特に1826年に始まった坂出塩田開発を指揮したことで知られています。

Q2:久米通賢と久米栄左衛門は別人ですか?

A2:同一人物です。久米栄左衛門の名でも知られ、通賢の号で呼ばれています。現在は久米通賢という呼び方が広く定着しています。

Q3:久米通賢と間重富の関係は?

A3:師弟関係です。1798年に大坂で間重富に入門し、約4年間、数学・天文暦学・地理・測量術を学びました。帰郷後も天体観測の結果を間家に送っていました。

Q4:久米通賢と伊能忠敬は一緒に測量したのですか?

A4:1808年の伊能忠敬による讃岐測量の際、通賢は案内・接待役を務めました。ただし、両者が継続的な共同研究を行っていたことを示す確かな記録は確認されていません。

Q5:久米式塩田とは何ですか?

A5:久米通賢が設計・開発を主導した坂出塩田の呼び名です。入浜式塩田を基本としながら、取水と排水の仕組みを工夫し、雨天後の排水を早めて製塩作業の効率を高めることを目指しました。

Q6:久米通賢関係資料はどこにありますか?

A6:香川県坂出市の公益財団法人鎌田共済会郷土博物館に所蔵されています。測量器具、天体観測記録、塩田の設計図、武器の製作記録など1,061点が国の重要文化財に指定されています。

まとめ:久米通賢の功績は坂出塩田だけではない

久米通賢(久米栄左衛門)は、1780年に現在の香川県東かがわ市に生まれ、1841年に故郷で生涯を終えた江戸時代後期の科学技術者です。

間重富から学んだ天文学や測量術を基礎に、高松藩の領内測量、精密な測量器具の製作、天体観測、機械の発明、銃砲の改良など、幅広い分野で成果を残しました。

なかでも1826年に始まった坂出塩田開発は、彼の知識と実行力が結実した代表的な事業です。約132ヘクタールの開拓を実現し、久米式塩田という技術的な特色を持つ製塩業の基盤を築きました。

2026年は坂出墾田着工から200年という節目にあたります。国の重要文化財となった1,061点の資料や、阪出墾田之碑、坂出市に残る関連遺構を通して見えてくるのは、発明家という肩書だけでは捉えきれない通賢の姿です。

彼は、科学を研究室の中だけにとどめず、土地を測り、産業を興し、地域の暮らしを支えるために活用しました。久米通賢の歴史的評価を考える際には、坂出塩田という完成した成果だけでなく、そこに至るまでの調査、設計、技術開発、経営計画まで含めて見ることが重要です。

江戸時代の地方から日本の科学技術史を支えた久米通賢。その仕事は、地域の課題に向き合う技術者の先駆的な姿として、今も歴史的な価値を持ち続けています。

主な根拠資料

- 文化庁「国指定文化財等データベース」
- 鎌田共済会郷土博物館「久米通賢について」「2026年春・郷土博通信」
- 坂出市「坂出塩田の父『久米通賢』」「塩業のあゆみ」「坂出市デジタルアーカイブ」
- 国土地理院「測量・地図ミニ人物伝:久米通賢」
- 中村士「伊能忠敬の全国測量と天文観測」『地学雑誌』2020年
- 四国電力広報誌「ライト&ライフ」2022年3月号

(出典: 久米 通 賢(Yahoo!ニュース))

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